映画 誰もがそれを知っている
2019年 09月 16日
ふりそそぐ陽光を浴びて、楽しげに疾走する車からの眺めは自然豊か、
遠く離れた家族とも、スマホでつながりながら、彼らの笑顔はかがやいて。

物語はじまってすぐ、出会っては、テンポよく弾けるように、交わされる会話、
どうやら、遠く南米からひさびさに、妹の結婚式のために、子連れで帰郷した姉、
家族や友人たちとの再会に、ほころぶ笑顔は幸福を呼びよせる力さえ、ありそうで、
生まれ育った場所で、慣れ親しんだ人々と過ごす、その喜びが微笑ましかったのに。

誰もがみな、祝福ではしゃいで、結婚式てそうですよね、新郎新婦を囃しながら、
つどった人たちみな、飲めや歌えや、楽しい気分を共有して増幅させて、
誰がどこで、何をしているのやら、わけわからなくなっても構わない高揚感、
そんな中で、ほんの一瞬の隙に、いきなり、氷水でも浴びせられたような悲劇が。

いかにも清らかで美しい娘さんだったんですよ、なのに突然、姿を消して、
アルゼンチンから、母親に連れられて、初めて訪れたスペインで誘拐なんて、
まさに気が狂ったかのような母親、そして、事情を知った、家族、友人、
警察に届ければ命はない、と脅されて、困惑、憔悴、絶望、翻弄される彼ら。

愛する者が、いなくなってしまったショックに、どうして?誰が?の猜疑心、
そもそも、なぜ彼女が狙われたのか、という疑問から、それぞれが抱える事情が、
徐々に、まるで、幸せを守っていた結び目が、ゆるんで、ほどけてゆくように、
穏やかな、自分たちの暮らしが、あっけなく、ばらばらに、崩れてゆく気配が。

窮地に陥ったときって、私たちは試されますよね、何がいちばん、大切なのか、
日々、たぶん、自分にとっての優先順位は、更新されて、その確認を迫られて、
でも、それってとても、むずかしくて、切なかったりもして、苦しい作業、
けれど、逃げないで立ち向かわないと、無力な自分を、きっと後悔することに。

愛すべき少女を、取り戻すために、何を犠牲にすることができるのか、
誰に犠牲を求めるのか、少女との関係性を、それぞれが、見つめながら、
一刻の猶予も許されず、極限状態に追いつめられた彼らが、導かれた答えに、
希望や、救いが、見出されたのかは、立場によって、考え方によって、きっと。

一面にひろがるぶどう畑と、労働する人々、輝きを放つワインの、神々しさに、
それらを慈しみ、育てあげた農園主の男の、情念の深さが、伝わってきて、
ひょんなことから、板挟みにおちいった、彼の苦悩に思いを寄せれば、胸は痛み、
すっかり忘れてしまったほどの、過去の傷に、深追いされた境遇の悲しさが。

それでも、困難に打ち勝ち、何かを取り戻した心持ちは、清々しく幸福なのかも。
悔いのない決断を、恐れずに下した自分には、励まされる人生であるのかも。

イランの名匠、アスガー・ファルハディ監督が、長年、構想を練り続け、
ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム夫妻に当て書きした脚本とのこと、
過去に引き戻された、嘆きや祈りが、鮮やかに、大時計の歯車の動きとともに。

シネプラザサントムーンにて9月
by habits-beignets | 2019-09-16 20:47 | シネマのこと | Comments(0)